ゴジラ咆哮 | イーロン・マスク氏と太陽光発電事業

昨年東京に現れたゴジラは歴代ゴジラの中で最大だった。
庵野秀明総監督・脚本の『シン・ゴジラ』は2016年7月29日に劇場公開され、観客動員数は500万人を越えた。庵野秀明が監督した作品は『ふしぎの海のナディア』や『新世紀エヴァンゲリオン』など大ヒット作が多いだけでなく、社会に対してアイロニーや疑問符を投げかけることでも有名でもある。それならば核兵器のアンチテーゼとして世界に登場したゴジラ最大化の理由をいくつかあげることができるかもしれない。
おそらく観客が『シン・ゴジラ』から呼び覚まされた感覚、それは非日常における惰性劇場のジレンマである。阪神大震災や東日本大震災から私たちが嫌々ながら目の当たりにしてしまったものがこれである。
本来、非日常は定石で捉えることができない。一方で人間社会が定石にないものを扱うためにはクリエーション――個より発生する力であり、複数人から生じるクリエーションは存在しない――を必要としており、複雑に織られた現代社会を扱えるようにはできていないのだ。だから当時の首相官邸からの中継は惰性の延長線上に見え、非日常に囚われた日本列島に絶望感を与えたのである。
『シン・ゴジラ』の作中でも惰性の会議が繰り返され、民間人の生活や命、大切な時間が奪われてゆく中、核兵器の最大の被害者であるゴジラはその肥大化を抑えることができなかったのである。ゴジラが嗚咽を漏らすように巨大な轍を刻みつつ、訴えているものはまさに自己の存在の否定であったように思える。
ゴジラ自身が自己を否定しながらも、人間社会は彼をその絶望から解放することはできていない。非核化どころか弱小国は生存を賭けてその貯蔵庫にプルトニウムを満載させようと躍起になっている。日本は核兵器の恐ろしさを広島・長崎によって世界に知らしめることになったが、70年の時を越え今度は原子力発電所が人知の及ぶところではないことを明るみに暴露した。理解できていることと理解させること、可能なことと実行すること、これらの近似の語句は近似でありながら最も遠い存在になっている。非核化は世界にとって重要なことであるが、それができない。脱原発は今すぐにでも解決しなければならない課題だが、取り組みに遅れが出ている。こういうものだ。
イーロン・マスク
さて、非日常の中での振る舞いは定石を越えたものでなくてはならなく、上述のクリエーションに依らなければならないが、現在そのクリエーションに最も近い人物としておそらく満場一致でイーロン・マスクが指名されるだろう。テスラモーターズという奇跡、いや、その前から経営者として成功を重ねてきている理由もクリエーションが光っている。
イーロン・マスクが取り組む再生可能エネルギーは一見するとこれまで他社に語られてきた既存のもののように感じられるが、彼が織り成すビジネスのフォルムはとても美しく前例がない。例えばテスラモーターズの電気自動車は、電気自動車の枠を越えるものではないが、それでも多くの人々を魅了することになった。電気自動車というブランドは一見して電気自動車であった従来のものと比べると、デザインやソフトが格段に評価されているのである。デザインはスポーティで高級感があり、ソフトは自動運転を可能にしている。
またイーロン・マスクの構想はこれだけではもちろん終わらない。テスラに充電する電気はどこで作られなければならないのか。もちろん原子力発電所なわけがなく、火力発電所でもない。テスラは買収したソーラーシティと共同で屋根タイルと一体化した太陽電池を開発したのである。またパワーウォールと呼ばれるテスラ製のバッテリーはこれまでのバッテリー価格を大きく下回ることに成功している。つまり屋根型太陽電池で発電された電気をパワーウォールに蓄電し、必要なときに自動車に充電するのである。
一つ一つは決して新しいものではないが、組み合わさることによってイノベーションが巻き起こるのである。これはアイフォーンに採用されている技術が既存の技術の集合体である一方、こうしたできあがった製品はイノベーションの代表格にまでなった。そのときの流れとよく似ているのである。アイディアを形にするというのは新しく何かを生み出すことだけではなく、「実現させるために必要な要素は何か?」と一生懸命になることである。
イーロン・マスクに世界中が魅了されるのはこうした巧みなイノベーションが、彼を一躍有名にした「人類火星移住計画」を可能にするのでないかという期待である。計画自体はいつ実現するかわかったものではないが、その計画を口にしているのが他でもない、イーロン・マスクなのだ。人々は「彼なら可能かもしれない!」と大きく希望を持つことができるのである。
ゴジラは未だ深淵で核物質にその身を焼かれながら蹲っていることだろう。人々が持っている感情とは別に世界は動いている。ミクロとマクロの間にある見えざる手が逆方向に人々を誘導している。人一人の心にある平和を望む気持ちと、群集となって選挙を実施したところで何も変わらないこの厭世観たるや。私たちが私たちのために考えた結果であり、私たちを陥れる結果でもある。ゴジラのあの咆哮は彼の苦しみの表現であり、群衆の中で囚われ続けている個々の人間の苦渋の呻きなのかもしれない。イーロン・マスクが考え、仕掛ける再生可能エネルギー事業は絶望の蜘蛛の糸に絡め獲られた人々から開放する希望なのかもしれない。